セレクトというものに対する多少のこと

まったくもって気が重いことである。
本来であるならば、箇条書きなどの後 草稿を作成し、数日後に見直して推敲するのに適した題目であるというのに
現在(PM22:46)このTeraPadのこの文章の下には ただ空白が広がっている。
しかしそれでもあえて この文章を打ち 間髪おかず世に出す事に一瞬のシャッターチャンスにも似た必然性を感じた事に他ならなかった。
だから書き捨てたような駄文を世に出す事を許してほしい。
まあ笑っていただいたとしても特にかまわない。

今日の文章はあなたの人生にとって特に役に立たない文章の羅列である可能性が高い。
本日は見ることをお勧めしない。



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さて、
この文章を書くきっかけから説明しなければならないだろう。
それはあるblogの論争がきっかけだった。
とあるblogにおいて写真における階級付け(Hierarchie 独ヒエラルキー・ヒエラルヒー、英語: hierarchy ハイァラーキ)
に関する論争を目にする機会があっからだ。
このblogを見る人にとって 写真とは何であるか?という問いに「セレクト」で
あるという答えを返す人が多いと思う
確かに写真とはセレクトである。カメラをセレクトし、フィルムをセレクトし、
被写体をセレクトし、構図をセレクトし、アウトプットをセレクトする。
ではセレクトとは何であるかといえばそれこそ階級付ける(順序を付ける)ということである。

では、私は(あなたは?)何を持ってセレクトしているのであろうか?
カメラ・フィルム・アウトプットであるならば今迄の経験則という答えがありそ
うな気がする
ただ 被写体と構図 これを説明するのはなかなか難しい。
何かを感じたから? じゃあ何かって何?
意識的に 無意識のうちにAを撮る Bを撮らないと私たちは階級付けているのはいったい何を寄る辺としているのだろうか?


「よく観る写真」という言葉がある「どこかで見た写真」も同義だ
それは言い換えればどこかで見た構図と被写体をセレクトしていると言う事であ
る。
売れている写真の真似をすると言うのはこの場では論外とさせていただくが

好きな写真家の作品に近くなる というのはどうだろうか?
特に無意識にという意味で
好きな写真家=視点(価値観)が近い写真家 というのであればなおさらだ。
価値観が近い写真家であるから 物事の階級付けが近くなり結果
心地よい風景 心地よい色が近似となって 似た写真になる それは在り得る事だ。
これに関してはとてもデリケートであるし、難しい また否定する事は困難である。
それが心地よいと言う価値観は優先されるべきだし
なにより今までは無意識の近似があったのにそれを意識する事で本来の自分のセ
レクトから離れてしまえば本末転倒である。

ただし、ここで最も重要なのは近しいことにはなったとしても同一にはなりえないということだ。
セレクトは選者の生きてきた時間がそうさせるものでなくてはならない。

あなたが鈴木理策が大好きで、写真集を何千回も見てまったく同じ構図でまった
く同じ機材で撮ったとしても あなたは鈴木理策とおそらく生年月日も家族構成
も失恋回数も写真に対して考えた時間も違う。だからあなたは桜や熊野を撮る必
然性はどこにあるのかと考える必要がある
あなたの生年月日と家族構成と失恋回数と写真に対して考えた時間に即した被写
体がおそらくあなたにはあるのではないだろうか

私の好きな写真にアルフレッドスティーグリッツの「イクィヴァレント」という
シリーズがある。空と雲を撮ったシリーズだ。
このシリーズは、スティーグリッツが妻ジョージア・ オキーフの写真を撮って名
声を得た後
「これは被写体であるオキーフが優れているからだ」と言うような中傷から、
では何処にでもあって 撮影者が自由にならないものを撮ってみようという考え
で撮り始めたものだと言う話を聞いた事がある。
「空」「雲」という被写体はおそらく最も一般的でありふれた被写体であるが
彼はオキーフの写真を撮り 成功したからこれを撮り世に出す必要性が生じた。

自らの自己からなる必然性によりセレクトした被写体を撮り、同じように写真を選ぶ
おそらくそれが自己表現なるものなのだろう。
しかしそれはとてつもなく難しい
なぜならば自己の階級付けの他にも世にはさまざまな階級付けが横行しているからである。
「一般常識(一般見識)」というのも横行する階級付けに含まれる
時として「それ」が自分の階級付けであると錯覚する が、それは異常なことではない。
人はそれらなのかで影響され生かされているからである。また大きな流れから見れば「自己=一般」でもまたあるからである。
細部は明らかに違うのは誰しも理解していたとしても、通常そこまで自己を認識する必要性という事は少ない。
しかし、セレクトし発信するということを自らに課している人種にとっては話は別で、その認識が何よりも重要になり、その階級付けがこの世に幾億ともある階級付けとは異なるということを認識しなければならない。
この状態で 安易な他の階級付けのトレースは避けるべきだ
なぜ自分がその階級付けをしているのか、それは何を所以としているのかを自らに尋ねる
その階級付けがオリジナリティなぞということではないか。
自己の必然によって撮った 写真を自己の必然によってセレクトする=オリジナリティ=自己

考えるとは自らに尋ねることである
何がそれをセレクトさせるのか、なにが目をそれから遠ざけているのか
もっと思考しなければならない。
そしてできれば、「他人の目・一般常識」と言う意識を少しだけ遠ざけて考えてみる
あなたの生年月日と生まれ故郷と恋愛回数と写真に対して考えた時間はおそらく
あなただけのものだから

何故それを撮り発表する必要性があるのか 考えてみる。
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by mono-photo | 2007-12-06 12:52 | 写真全般いろいろ考

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